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FOCUS vol.2 なぜ宇治は最高級抹茶のオリジンになったのか

私たちのパートナーのひとり、13代目山本重朗兵衛。彼の先祖が緑茶の生産を始めたのが宇治田原です。この場所はいま、「UJI MATCHA」の産地として、世界中から注目を集めています。宇治田原を含む宇治エリアはなぜ、最高級抹茶の代名詞となり、日本の抹茶生産のオリジンとなったのか。その謎を紐解きます。

いま世界中で高級抹茶の代名詞になっている「UJI MATCHA」という言葉。宇治茶は、京都府、奈良県、滋賀県、三重県の4府県で生産された茶葉を原料とし、京都府内の業者が宇治地域に伝わる伝統的な製法で仕上げ加工したお茶、と定義されている。なかでも宇治市周辺に広がる宇治田原町、宇治市白川地区、和束町、城陽市は最高品質の抹茶の生産地だ。

なぜこの場所が最高級の抹茶の生産地になり得たのか。その答えを探るため、時計の針を千年巻き戻そう。

世は平安時代。平安京と呼ばれた首都が置かれた京都から南へ約20km。牛車に乗って約半日で辿り着く距離にあり、山に囲まれた宇治は貴族たちの別荘地として人気を博した。

時の最高権力者で、

「この世をば 我が世とぞ思ふ望月の 欠けたることもなしと思へば」

と我が世の春を謳った藤原道長が別荘を構えたのも宇治だった。宇治殿と呼ばれた豪奢な別荘は、道長の子の藤原頼通の時代に「平等院」という寺院に改められ、現在日本の10円硬貨の表面にも描かれている。

貴族が多く集まる場所となれば、宿泊するための宿や休憩するための茶屋が開かれ、宇治川沿いには船乗り場も整備されて門前町が形成されていく。

時代は鎌倉へとくだり1191年。中国から帰国した栄西がお茶の種を日本に持ち帰ると、日本でも本格的にお茶の栽培が始まることになる。後鳥羽上皇から栂尾(京都市右京区の地名)の地を賜った明恵上人が「高山寺」を再興。栄西から贈られたお茶の種をこの地に植えて栽培を始め、そこで育ったお茶の種を宇治の里人に授けたのが宇治のお茶作りのスタートとされている。

貴族が集まる土地でお茶の栽培が始まれば、その味が洗練されていくのは当然の流れだろう。そして、人が紡いできた歴史と同じように重要なのが、このエリアの土壌である。

和束町の茶畑に覗く岩壁を見ると、「層状チャート」と呼ばれる地層で形成されていることがわかる。チャートは硬く風化しにくい一方で、砕けると極めて水はけの良い土壌を作るのが特徴だ。この水はけの良さと、寒暖差が生み出す朝霧。地球の営みと気候が織りなすお茶作りにおける「奇跡のテロワール」が、この地に揃っていたのである。

こうして誕生した宇治のお茶は他の地域とは一線を画す深い味わいを生み出し、貴族や室町将軍たちを熱狂させていくことになる。そして宇治が「お茶の産地」にとどまらず、「最高級抹茶のオリジン」となった決定的な技術革新が安土桃山時代に訪れる。

漫画『へうげもの』に描かれたように、1500年代の中頃には「茶の湯」文化が花開いていく。最高のお茶を権力者に献上すべく腕を競うようにお茶の栽培に励んだ茶農家を悩ませたのが、春の霜害だった。春先の遅霜が発生すると新芽が凍ってしまい収穫ができなくなる。それを防ぐために藁や葦で茶園に屋根を架ける工夫が発明された。

この霜除けのための工夫がお茶の色と味わいに劇的な変化を生む。日光を遮って育てた茶葉は、鮮やかな濃い緑色になり、渋みは抑えられ旨みと甘みが増したのである。さらに独特の甘い香りが生まれた。これが、現在にまで続く碾茶栽培の手法である覆下栽培へと繋がっていく。

豊臣秀吉はこの極上の宇治抹茶をこよなく愛し、宇治の茶商を庇護したとされる。江戸時代には、徳川将軍家へ宇治の新茶を届ける「茶壺道中」が制定され、宇治抹茶は日本における絶対的なブランドとしての地位を確立するに至った。

平安の世に京都の貴族たちが愛する風流な別荘地として隆盛を誇ったこの地に、高僧が一粒の茶の種を植え、戦火飛び交う時代の一服の癒しとして天下人たちに愛された宇治抹茶。千年の時をかけて作られてきたからこそ、今も、これからも、世界中の人々の憧れであり続けるだろう。